公開: 2019年8月23日
更新: 2019年8月xx日
17世紀の始め、モスクワは、ポーランドによって支配されていました。このポーランド支配に反対して抵抗運動が起こり、国民軍が組織され、ポーランド軍との戦いに勝ち、1612年にモスクワはロシア人の手に戻りました。1613年に開かれた全国会議によって貴族のロマノフ家のミハイル・ロマノフが皇帝に選ばれ、ロマノフ朝が始まりました。ミハイル・ロマノフの父親は、その後総主教に就任して、スウェーデンやポーランドと休戦協定を結び、それまでに失っていた国土の回復に勤めました。
17世紀の中頃に、ポーランドで起きた反乱を助けて、ロシアはポーランドとの戦争を始め、13年間に渡って戦争を続けた結果、ウクライナとキエフを獲得しました。この後、ロシアでは、法律の体系が確立し、全国会議を中心とした政治から、皇帝による専制政治に移行しました。この法律によって、農奴制が決められました。17世紀末になると、ピョートル1世による専制政治が始まりました。ピョートル1世は、オスマン帝国との戦争に負けた後、ロシアに本格的な海軍を編成しました。その後、ヨーロッパ視察によってヨーロッパの先進技術を学びました。
18世紀に入って、ピョートル1世は港を求めて、ポーランドやリトアニア、デンマークと同盟を結び、スウェーデンと対立しました。スウェーデンとの戦争で、劣勢になりながら、スウェーデン軍が手薄だったイングリア、エストニア、リヴォニアを攻めて制圧しました。この間ポーランドを制圧したスウェーデン軍は、ロシア本土への侵攻を始めましたが、ロシア側の焦土作戦に苦しめられました。1709年にウクライナ東部の戦いでスウェーデン軍は大敗し、オスマン帝国へと逃れました。しかし、オスマン軍との戦いでもスウェーデン軍は劣勢になり、スウェーデンは領土の一部をオスマン帝国に返還しました。
その後も10年間にわたって、ロシアとスウェーデンとの戦争が続きますが、ロシア軍側の優位は変わらず、ロシアはフィンランドを制圧し、ロシア海軍はバルト海の制海権を確保しました。この戦争は、1721年にスウェーデン側が譲歩し、ロシアはフィンランドのカレリア東部、イングリア、エストニア、リヴォニアを獲得して、バルト海への出口を手にしました。ピョートル1世は主都をモスクワからヨーロッパに近いサンクトペテルブルクに移し、ロシアの西欧化改革を進めました。18世紀のロシアでは、人口の大部分が農民で、都市に居住する人々はごく一部でした。
1725年にピョートル1世が死ぬと、その妻、エカテリーナが女帝として即位しました。しかし、わずか2年の在位の後、死去したため、ピョートル1世の子っ、アレクセイの子供がピョートル2世として即位しました。幼かったピョートル2世に代わって、保守派の貴族が実権を握り、主都はモスクワに戻されました。このピョートル2世も在位わずか3年で、14歳の時、病死しました。その後、政治はバルト・ドイツ人に任され、「ドイツ人の支配」が続きました。バルト・ドイツ人たちは、ロシアの工業化を進め、鉄の生産などは急増しましたが、大凶作に見舞われた農村では、農民の逃亡や餓死が数多く出ました。
1741年に「ドイツ人の支配」が続いたことへの不満から、皇帝の警護兵によるクーデターが発生しました。その結果。ピョートル1世の娘、エリザベータが女帝に即位しました。彼女の時代には、財政再建が進み、産業振興が成功し、官僚制度の確立が進みました。農奴制が強化され、モスクワ大学が創立されました。ロシアは、1741年から再びスウェーデンとの戦争を戦い、西カレリア地方を獲得しました。1756年に勃発した7年戦争では、ロシア軍はベルリンにまで侵攻し、プロイセン王フリードリッヒ2世を窮地に絶たせました。
1761年にエリザベータが死に、ピョートル3世が即位しました。ピョートル3世は、エリザベータの甥でした。ピョートル3世は、7年戦争から離脱して、プロイセンと講和を結びました。さらに、ロシア正教会を圧迫したため、人々の反感を受けて、クーデターが起き、廃位されて、その皇后でドイツ人の血を引木、啓蒙君主を自認したエカテリーナ2世が即位しました。エカテリーナ2世は、モンテスキューの法の精神などの西欧の啓蒙思想を取り入れた政治をしようとしましたが、うまくゆきませんでした。そして、貴族の根絶を主張したプガチョフが反乱を起こし、不満を持っていた農民が数多く参加し、反乱軍はモスクワを脅かすほどになりました。
この間、1768年にオスマン帝国との戦争を始めて、1774年に黒海北岸部を獲得しました。さらに、クリミア・ハン国をオスマン帝国から離脱させ、1783年にロシアに併合しました。このクリミア半島の経営は、ポチョムキン将軍に任され、地域の開拓と黒海艦隊建設が進められました。オスマン帝国とは1787年に再び戦争を起こし、1791年に講和を結び、黒海沿岸地域を完全に掌握しました。さらに、エカテリーナ2世は、オーストリア、プロイセンと共謀して、ポーランド・リトアニアを3度にわたって分割し、ロシアの領土を西へ広げました。1789年にフランス革命が勃発すると、それに強い衝撃を受けたエカテリーナ2世は、自由主義思想を弾圧するようになりました。
1796年、エカテリーナ2世が死ぬと、息子、パーヴェル1世が即位しました。彼の政治は一貫性を欠いていたため、1801年にクーデターが起き、皇帝は宮殿内で殺害されました。そして、皇太子であったアレクサンドル1世が即位しました。彼は、立憲君主制の導入や農奴解放など進歩的な政治を望んでいたようですが、保守的な貴族の反発によって、それらのほとんどが挫折しました。対外的には、イギリスやオーストリアと同盟を結び、ナポレオンと対決しました。ナポレオンとの戦いで、3回敗北を喫し、ティルジットの和約を結びました。この講和に従って、ロシアはナポレオンの大陸封鎖に参加し、イギリスと開戦しました。1808年にイギリスと同盟を結んだスウェーデンと開戦し、勝利したため、フィンランドとオーランド諸島を併合しました。1812年には、オスマン帝国からモルダヴィア公国の東部などを獲得し、1813年にはペルシアとの戦争でジョージア(グルジア)とアゼルバイジャンを併合しました。
1812年、大陸封鎖令の実施に関する意見の対立から、ナポレオンは、ロシアへの侵攻を始めました。ロシア軍は正面からの決戦を避けて、焦土作戦で少しずつ後退を続けました。ナポレオン軍は、ロシア軍が退いたモスクワを占領しましたが、直後にモスクワが大火で廃墟となりました。それでもアレクサンドル1世はナポレオンとの和平交渉には応じませんでした。ナポレオンは、廃墟になったモスクワを放棄して撤退を始めました。しかし、冬になって、ナポレオン軍は退却戦で大損害を出しました。ロシア軍は敗走したナポレオン軍を追って、ヨーロッパまで進軍し、パリにまで攻め登りました。連合軍はナポレオン軍を撃破し、ウィーン会議の後、ロシアは、ポーランドを支配することになりました。このナポレオンとの戦争で、ロシアはヨーロッバの強国になりました。
1825年にアレクサンドル1世が死に、その弟のニコライ1世が即位しました。この時、ナポレオン軍との戦争に参加した若い将校が、ヨーロッパ地域の戦争で、自由主義思想に接し、専制政治の打破と農奴制の廃止を主張するようになっていました。ニコライ1世の即位の際、これらの若い将校たちは、皇帝への忠誠の宣誓を行わず、約3,000人の反乱軍が憲法制定を要求しました。準備不足のまま反乱を起こしたので、反乱は直ぐに鎮圧されました。この反乱軍の首謀者は、死刑、またはシベリアへの流刑となりました。この政府の苛酷な報復処置は、知識人の共感を集め、反乱に参加した人々が、ロシアにおける革命運動の殉教者と見られるような空気が生まれました。
1827年、ロシア海軍は英仏の海軍と連合艦隊を組み、オスマン帝国とエジプトとの連合艦隊とナヴァリノの海戦で戦い、勝利しました。その後、オスマン帝国からギリシャは独立、モルダヴィアやセルビアの自治も承認されました。一方、ロシアの統治下にあった旧ポーランド・リトアニア共和国地域では、1830年に反乱が勃発して、ポーランド国会はニコライ1世の廃位を宣言しました。ニコライ1世はこれに対して大軍を送って、鎮圧しました。ポーランドの憲法と国会は廃止されました。ポーランドには、皇帝が任命する総督が置かれました。1853年、ロシアは領土問題でイギリス・フランス両国との間に不和が生じていました。エレサレムにおけるロシア(ギリシャ)正教会の聖地管理権についてのオスマン帝国との意見の食い違いからオスマン帝国との戦争が始まりました。この戦争では、イギリス・フランスの介入を招き、クリミア戦争となりました。英仏連合軍はクリミア半島に上陸、ロシア軍は苦戦を強いられていました。1855年、ニコライ1世は心労などで死去しました。
ニコライ1世の死後、アレクサンドル2世が即位しました。その後、約1年間の戦争がクリミア半島で続き、ロシア軍は戦争を継続することができなくなりました。1853年、黒海の艦隊保有禁止などを決めたパリ条約が締結されて、クリミア戦争は終わりました。この戦争で、ロシアが近代化された軍隊をもつイギリスやフランスに負けたことで、ヨーロッパ最強の陸軍をもつとされてきたロシアにとって、軍の近代化が遅れていたことが明らかになりました。この敗戦をきっかけにして、農奴制への批判は高まりました。このため、皇帝は進歩的な官僚を登用して改革に取組むことを宣言しました。1861年に農奴解放令が公布されました。政府は、領主から農地を買い取り、解放された農奴は政府から借金をして農地を買うことになりました。解放された農奴は、政府から農地を購入した農村共同体に属して農耕に従事しました。農民に対しては、領主からの拘束はなくなりましたが、農村共同体からの拘束を受けるようになりました。そのため、農民の生活は解放前よりも苦しくなりました。
アレクサンドル2世は、農奴解放以外にも、地方行政改革、司法改革、教育改革、軍制改革なども実施したため、一連の改革を大改革と呼びました。対外政策では、プロイセンに接近して1871年に宰相ビスマルクとの連携で、クリミア戦争後に課せられた軍備に関する制限の撤廃に成功しました。1973年には、ドイツ帝国、オーストリア帝国、ロシア帝国との間で同盟を結びました。また、1867年にアラスカをアメリカ合衆国に売却し、1881年にトルクメニスタンを征服しました。また、東アジアでは、清国との条約締結で、1858年アムール川左岸の領有に合意し、1860年には沿海州をロシア領にしました。1870年代になるとオスマン帝国に支配されていたセルビア人やブルガリア人などのスラブ系諸民族が反乱を起こし、バルカン半島は危機的な状態にありました。ロシアでは、汎スラブ主義が盛り上がり、スラブ民族の解放が主張され始めました。1874年にロシアはオスマン帝国との戦争に踏み切り、ロシア軍は主都のイスタンブールに迫りました。
1878年にオスマン帝国はサン・ステファノ条約を結び、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立が認められました。その結果、大ブルガリアが建国されました。このサン・スファノ条約に危機感を持ったイギリスの抗議で、ビスマルクはベルリン会議を開催し、列強国によるバルカン半島の分割と国境線の改訂が議論されました。この結果、ロシアは、アルメニアの一部を得ましたが、オスマン帝国内の自治公国としての小ブルガリアの建国に同意せざるをえませんでした。この頃から、社会的なリーダーとして、聖職者や下級官僚、商人などの階層の知識人が現れ始めました。さらに、専制政治の打倒を掲げる革命的な傾向の強い人々が出現し、資本主義を経ずに農村共同体を基盤に社会主義社会の実現を目指したナロードニキが出現しました。彼らは、政府の弾圧を受けながらも、労働者への宣伝活動を行い、さらに農民への宣伝活動も行いました。1881年、テロによる政治革命を訴えた人々が、皇帝を標的にした爆弾テロを成功させ、アレクサンドル2世は暗殺されました。
1881年に暗殺されたアレキサンドル2世に続き、その子アレキサンドル3世が即位しました。アレキサンドル3世は、極めて反動的な思想に基づき、治安維持を目的として「臨時措置法」を公布し、革命運動の弾圧を強めました。また、教育や出版においても規制を強めました。これによってロシア国内の革命運動は下火になってゆきました。さらに、治安を回復する目的で、貴族を優遇し、地方行政における貴族の権力を強化しました。また、農奴解放に伴う借入金の返済額軽減や農村共同体の保護などについては、改善策がとられました。この時代、政治においては反動化が進みましたが、ロシアの経済は大きく発展しました。特に1870年代以降、繊維工業や軽工業が大きく成長しました。これは、アメリカ合衆国の南北戦争で輸入が難しくなった綿花の栽培を、中央アジアで行い、そこから算出した綿花から糸を作り、布を作るようになったからでした。1890年代になると、重工業部門で産業革命が起こり、シベリア鉄道の建設や、南部の新興工業地帯の建設も進みました。
1894年にアレクサンドル3世が死に、ニコライ2世が即位しました。ニコライ2世は、農村共同体を解体して、市場経済の導入を進めようとしましたが、貴族達の強い反対で、改革はとん挫しました。20世紀に入り、農民暴動が増加し、労働運動や、学生運動も活発になりました。ナロードニキの流れをくんだ社会主義者達は、社会革命党を結成して、全ての土地を農民に分け与える「土地社会化」を唱えていました。これに対して、マルクス主義者達は、革命は農民ではなく、都市労働者から始まると主張し、闘争同盟を組織していました。1898年にミンスクで社会主義労働党設立大会が開催されましたが、政府の弾圧で壊滅状態になりました。1903年にレーニンが主導して、第2回党大会をブリュッセルで開催しました。この大会では、穏健派と急進派が対立し、レーニンらは職業革命家による指導部を作り、権力を握るための労働者階級を先導することを主張しました。この頃、ロシアは東アジアへの進出を強め、日清戦争で遼東半島を獲得しようとしていた日本に対し、フランス、ドイツと共同して三国干渉を行い、日本に遼東半島の放棄を約束させました。その後、ロシアは遼東半島の旅順や大連を清から借り受け、旅順港に要塞を建設し、太平洋艦隊の拠点としました。